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○腐った根っこ
2015.9.16
 元小学校教員の女性は語った。
 私の人生を振り返ってみると、根っこが腐っていたらいくら水をやっても肥料を与えても吸収されない。結局は腐るしかない。そういう人生であった。驚くことに今なおその腐った根っこを私は持ち続けている。それは私が何かに思いを巡らしたり何かをしようとするにしろ、私のことを他人がどう思っているのかが絶えず心のどこかにある。頭を抱えても抱えなくても他人からの評価を常に気にしている私がいる。そのアホらしさに気がついただけでも得をしたとは思うが。私の心からその腐った根っこを取り除くべく情コン(情動コントロール)をするがまだまだ甘い。昨日書類の整理をしていたら情コン記録が出てきた。それを見ると今までやってきた情コンは上すべりのもので、それも私自身をごまかした上での情コンだったことに気がついた。心の安らかな状態で感じる現実視感覚にはほど遠い。
 また私は「お利口さん病」の塊でもあった。小さいときからお利口さんと褒められ、小学校に入ってから大学に進学するまでは成績も良く品行方正な典型的な優等生であった。教職に就いても不登校の子を担任すると、何がなんでも学校に出てきてもらわないといけないと思い、毎日家庭訪問をした。子どもは学校に姿を見せることなくその学年は終わった。いい教師と思われたいために、子どものこころの苦しみはほんの少ししか感じていなかった。他の子どもの親からも相談を受けると何か指針を与えなければと思って、いろいろな本を読みかじって得た受け売りの知識を親に伝えた。親は私をいい教師だと褒めた。子どものことを相談してくるのは私にはそれだけ教師としての力量があるからだと勝手に思い込んでいた。それはどうやらとんでもない思い違いだった。私からすれば子どもを知識のない「でくの坊」とみていた。そうみえる子どもを手助けしようと何かと熱心に関わってきたに過ぎなかった。目立った効果はなかった。私は職場ではいつも輝いていた。
 しかし私は人生に疲れ果てた。絶えず他人の目が心にこびりついていたから。少しずつだがその疲れから解放されつつある現在、目立ったり他人に称賛されたりするような人間である必要のない世界の存在に気づき始めている。少しずつだがそういう心境に近づきつつある。しかし腐った根っこは心の奥深く根を張っている。だから未だに日によって気分に波がある。周りの人に影響される依存性がしつこくある。自律性に乏しい私がいる。
 夫と長女が喧嘩状態になった。長女から「私はしばらく実家には帰りません。帰らないのは決してお母さんの責任ではありません。お願いだからうつにならないで下さい」とメールがきた。長女は乳離れしていないと思っていたが、娘に依存していたのは私の方だったと気がついた。娘たち二人でコンサートにいくと「何時に帰るの?」「今どこにいるの?」と長女にメールをしてしまう私がいる。長女は帰宅して「メールがうざこい。私らは自分で判断して行動できるのだから。もういいじゃない?もう母親の役割はとっくに終わったやん」と私を叱った。私はひどく落ち込んだ。私が子どもに依存していた。子どもに突き放されてから夫への依存が強まった。これからも自分でいろいろと決めていけないことがあるのだし、夫の優しさにいつまでも甘えている訳にはいかない。夫も私の病気が悪くなるとやっかいだから優しくしているに過ぎないことも分かってきた。私も精神的に独立しないと夫が可哀想。夫も娘と同じような状態に追いやってしまったら家族はなくなってしまう。
 家族はべったりとくっついて行動をともにするものだと思っていた。それが家族の愛情というものだと信じていた。家族といえどもそれぞれが一人の人間であるという把握をしてこなかった。私も60歳の後半に入った。家族の中で一番自律的でないのは私だと娘も夫も思っている。私もそれではいかんと思う。長女にすばっと言われてから寂しさはなくなった。今から子供に育ててもらう立場だと思った。早く大人になりたいものだ。
 自分の人生観ではなく他人の評価で生きてきたのは、せっかくの人生を本当にもったいないものにしてきたと思う。しかし腐った根っこを取り去るのはなかなか手強い。

 自分の孤独を知ること
 これすなわち安楽なり
(森 正博)
腐った根っこ
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